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日々思ったこと。日本語の勉強。
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なにか状況が変わったりひとつのことがおわったりするときなどに、 時折文章が書いてみたくなったりする。 昔のメールを見返してみる。 当時の空気や、かかわっているひとたち、思い出されては、 あくまでそれが過去のものになっていることを認識する。 過去は現在によって作り直され読みかえられ、再形成されていく。 感情なき理性はなく、理性なき感情はない。 過去を読み返して、それを描いた自分に違和感を感じることは この二年とても多かった。それがついぞ一か月前でもそのようにおもう。 読み替えられるのは未来についても同じだ。 ただそれをポジティブに読み続けることは体力がいるのだ。 未来はわからないからこそ、希望でもあり不安でもあるのだから。
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BSS&stars大阪公演いってきました。
久しぶりのライブだったのでなきそうになったよ。

最初はstars。
少しはmyspaceで聞いたけど、
ちゃんと聞くのは今回が初めて。
なぜかドラムがさくらの柄のマスクをかぶっていた。
ギターの人が地味だったけどよかった。

それでBSS。
最初の曲から、いい音。
というかメンバーに特徴ありすぎ、
頭の薄くなったダンエレクトロがにあうおじさん。
ぱっとみ白い髭を蓄えた教授みたいなおじさん。
ちょっと目がやばいおにいちゃん。

それにしてもみんなかなりのマルチプレーヤー。
ギター、ベース、キーボード、トランペット、ドラムを
かわるがわるひく。
たまに、パート交換しなくてもいいんじゃないかという部分もあるが、
人の楽器にもかかわらず、かわるがわる。
なれない楽器だと弾きにくいものだろうが、
よく弾きこなせるものだ。

starsのメンバーも結構乱入する。
ベースのスーツをきたいい感じに太ったおっさんが、
肉襦袢、白鳥、ビールのかぶりもので参戦。
コスチュームもかわるがわるなんだろうか。

KCadditional など、好きな曲は聴けたが、
Anthemなんかの女性ボーカルメインの曲は
メンバーが来てなくて聞けず。

というか、メンバー流動的すぎて
ゆるすぎだよ。

一概にしていいライブでした。
満足。
今年の夏、私はイスラエルで二ヶ月間ヘブライ語を学びました。今回はその時に経験したことについて書きたいと思います。私は日本で、イスラエルを取り上げた写真や映画をいくつかみたことがありました。多くの場合、画面に映されるのは、砂埃の舞う乾燥した風土です。町並みはどこか人を寄せ付けない雰囲気があり、この国の持つ問題や矛盾がひしひしと伝わってくるようでした。
しかしながら、私がそこに見出したものは「イスラエル・パレスチナ問題」を念頭においた製作者や、それを期待して見に行った私が読みとったものだったのでしょう。私は二ヶ月間滞在して、そのような雰囲気はあまり感じませんでした。ということは、私の問題意識が甘いか、もしくはどこかその問題を隠しているようなところがイスラエルでの日常にはあるのではないでしょうか。
そのような例は、珍しいものではありません。私の滞在中に、エルサレム旧市街で警察の銃を奪って宗教的ユダヤ人のための学校、イェシェバを襲撃しようとしていた一人のパレスチナ人男性が殺されるという事件が起きました。しかし私がこの事件について知ったのは、一緒に来ていた友人が日本からの連絡によって聞いたためでした。クラスでこの事件が話題になることはありませんでした。私が聞いたこの事件の詳細は、旧市街の土地をユダヤ人が買い取り、そこに宗教的な学校を作ろうとし、それに反発したパレスチナ人がそこを襲撃しようとしたそうです。
私が通っていたヘブライ大学はエルサレム郊外の高台にあるため、毎日旧市街を望むことができます。しかし、毎日学校と寮との往復をしているだけだと、そのような対立を肌で感じることは少ないように思いました。もしくは、彼らはできるだけそういった問題に触れないようにしているのかもしれません。エルサレムにおいて、イスラエル人とパレスチナ人(もしくはアラブ人)の生活圏は大きく重なっています。私の通学路には大きな総合病院があったのですが、そこには同じ場所にイスラエルのバスとアラブ人のバスが止まります。彼らが互いに相手のバスに乗ることはありません。近くて遠い隣人、私にはそのような気がしました。
もちろんヘブライ大学にはたくさんのアラブ人が通っています。私のクラスにも二人のアラブ人がいました。彼らがヘブライ語を学ぶのはお金のため、その方がより収入のいい仕事やより社会的によいとされている教育が受けられるからだそうです。私たちが使用していた教科書のテキストは、ユダヤ人の歴史やイスラエル建国について扱ったものがほとんどでした。そのような内容でも、アラブ人たちは積極的に手を挙げて読んでいきます。しかし先生が政治的に難しい問題に触れることはありません。
生活圏が重なっているとはいえ、彼らの居住地については複雑に入り組んで、場所によってはしっかりとした見えない線引きがあるようです。ある安息日に、私は寮のすぐ近くのアラブ人地区に散歩に出かけました。そんなところに日本人が来るのが珍しいのか、道行く人は珍しそうに、私を凝視します。そのようなとき、(いつも旅先ではそうするのですが)私は笑顔で返すことにしています。悪意はない、対話可能な相手だということの合図です。中には目をそらす人もいますが、大概の人は笑い返してきてくれます。そのうちに三、四人の子供たちがよってきて、私に話しかけます。私は残念ながら、アラビア語が分からず。とりあえず、「ここ(アラブ人地区)はどうだ?」と聞いてきているようだったので、私の数少ないアラビア語の語彙から「ジャミールン(美しい)」とだけ答えました。彼らとともに街の中央のモスクまで行くとたくさんの人がバス待って座っていました。たくさんの人に凝視され、あまりにも気まずかったので、アラビア語で挨拶してみたら、怪訝そうに返答してくれました。歩いて10分程度のところでしたが、あまりにも雰囲気が違って驚きました。道の幅や建物の造り、少し行くともうそこには荒野が広がっているようです。決して住みやすい場所ではないはずです。このアラブ人地区は、ヘブライ大学のキャンパスから見下ろすことができました。夕方のアザーンの声、人々の生活の音、高台にある大学のキャンパスからはよく聞こえます。もう少し別の角度から眺めたくて、足をのばすと、そこには分離壁がどこか模型のように据えてあるのが見えました。日本で、ドキュメンタリーなどを見ると、分離壁は二つの民族の間を断ち切るかのようなものとして伝えられているように思います。確かに壁のおかげで自爆テロは減ったといいます。しかし、思ったよりも日常は平和なものなのだなと感じた私にとって、そのような壁がすぐ目の届くところにあるということ、つまり、日常的に根深い対立を孕んでいることをすぐに受け入れることは難しいことでした。
またあるとき、「日本・イスラエル・パレスチナ学生会議」という、日本にイスラエル人とパレスチナ人を招いて交流の場をもつことを目的にした組織に参加していた友人に紹介され、その会議に参加していたイスラエル人と会う機会がありました。その席は、なんと結婚宣言パーティー(?)のようなものだったのですが、私のようなものでも喜んで受け入れてくれました。その際に、それとなくイスラエル・パレスチナ問題についての話をしましたが、彼らは多くを語ろうとはしませんでした。イスラエルに生まれて、彼らは3、4世代目ぐらいになるのではないでしょうか。彼らにとってはすでにイスラエルが故郷なのです。生まれながらにこの問題に直面している彼らに、このことについて議論することは難しいことなのだなと私は痛感しました。
イスラエル・パレスチナの関係は、どこか怠惰な均衡状態になっているように思えてなりません。今回の私の経験から見えたものはごくわずかなものであったと思います。しかし、私には、彼らが自分たちの抱える問題に正面から向かい合う困難さ、もしくはそのことに対する疲れのようなものが見えたような気がしました。
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